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自動車評論家だけが悪いという話じゃない、とは思う。
MAZDA・ターンパイクで評論家の森野恭行氏が亡くなった事故は、業界やクルマ好きだけではなく、TVの報道などで一時は話題となったみたいだ。
ただ、広く報道される場合の多くの例に漏れず、またネットを中心にした反応は冷ややかで、「運転のプロでもないのに無謀」「100キロ以上出していたなんて自業自得」「一般の人が巻き込まれなかったのが救い」といった、まあいつもの切り捨て論調な感じ。
それは決して間違いではないけれど、調子に乗ったひとりの評論家がたまたま激突死したで終わってしまうのは、たぶん違うと思う。
また、同業者やクルマ好きの一部では「原因追究」などとあれこれ想像を働かせた記事やブログなどがあるけれど、人ひとりの死より衝突のメカニズムや技術論に興味が傾いているようで気持ちが悪く、これもまた違うかなと。
今回は雑誌の取材だったらしいけれど、ターンパイクはメーカー試乗会会場にもなっている。そこで多くの評論家が「テスト」を行い、それを記事にする。その時、では多くの評論家が制限速度内で走っているかといえば、そんなことはほぼ皆無だろう。
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もちろん、道路を借切って制限速度を開放するケースもあると思うけれど、その場合だって道路自体が変わるわけじゃないので、リスクとしてはまあ同じことかと。そしてメディアやメーカー、あるいはインポーターもそれを認識しているという点が肝なんである。いや、認識というか、速度についてはある種の黙認をして「そういう記事」を期待していると。
だから、今回の事故ではなぜ依頼元のメディアの話が出てこないのかが、いささか疑問な感じだった。乗客を乗せた高速バスが事故を起こせば、運転手の責任はバス会社の管理責任にも及ぶ。じゃあ、同乗者がいないからといって自己責任でコトは終結なのか?
当然、警察の取り調べ段階ではメディアへの聴取もあったんだろうけど、ニュースとしてはあくまでも個人のミス、暴挙としてのみ扱われることに大きな違和感を持つ。もしメディアなどへ話が及べば、もしかしたら業界の実情なりインプレッションのあり方などに話が展開したかもしれないのに。
それにしても、プライベートはいざ知らず、媒体ではほとんどこの件に触れられないのが不思議なところ。あたかも何事もなかったようにするのが故人のためということなのか、あるいは大人の対応ということなのか?
(16/05/23 すぎもとたかよし)
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